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書宗院が顕彰する書家

比田井天来ひだいてんらい

比田井天来 明治5年ー昭和14年(1872ー1939)

長野県北佐久郡協和村(現、佐久市協和)の素封家に生まれる。幼名を常太郎、後に鴻と改名。字は象之。天来は号である。壮年時、淳風、天籟と号した。画沙道人、大璞山人の別号も用い、最晩年には天来老人、画沙老人の款を用いた作品もある。
明治30年上京、日下部鳴鶴門下となり、詩を岡本黄石に就いて学んだ。後に渡邊沙鷗、丹羽海鶴、近藤雪竹と共に鶴門の四天王と称されるようになった。大正3年、松田南溟と共に剛毛筆による新しい用筆法を発見した。昭和5年に東京代々木に、10年に鎌倉に、それぞれ"書学院"を建設し、後進の育成と斯道の研鑽の場とした。比田井天来の業績は"現代書道の父"と称されるように、桑原翠邦、上田桑鳩、手島右卿、金子鷗亭、石田栖湖、石橋犀水、村上北海など戦後現代日本の書道界を代表する多くの作家を、その門下として世におくり出したことが第一に掲げられる。

川谷尚亭かわたにしょうてい

川谷尚亭 明治19年ー昭和8年(1886ー1933)

高知県安芸市に生まれる。名は賢三郎。字は大道、横山逸民、雲弟などの別号を用いた。兄横雲のすすめで近藤雪竹に師事、この頃猛練習を続け、1日5号の墨水を使用、豊かな天性と刻苦奨励により頭角をあらわし、日下部鳴鶴より雪竹門の麒麟児と称される。大正7年、上京。三菱造船株式会社に入社。日下部鳴鶴、比田井天来、丹羽海鶴、松田南溟等の大家の益を受ける。特に天来には最も私淑し、その後の書に大きな影響を受けることになる。大正13年、大阪に居を移し、「書之研究」を刊行。「和漢名品集」「書道講習録」「楷書階梯」「書道史大観」など全精力を傾注した。書をはじめてより48歳で亡くなるまでのわずか25年、尚亭の書と業績を思うとき、彗星の如き美しい光彩は今も、そしてこれからの書道界においても輝きつづけるに違いない。

比田井小琴ひだいしょうきん

川谷尚亭 明治18年ー昭和23年(1885ー1948)
東京日本橋に生まれる。旧姓田中元子。明治31年14歳で阪正臣について、和歌、国文、書道を学ぶ。同34年、渡邊沙鷗の媒酌で比田井天来と結婚。後に四男三女を儲ける。結婚以後、天来の影響のもとに和漢の古碑帖を学び、鎌倉高等女学校、東京美術学校の講師を歴任するなど、一家風をなした。
昭和7年、文部省教科書編纂委員、高等小学校書き方の手本を揮毫。昭和12年、大日本書道院の総務、審査員を務めるなど、女性かな書道の第一人者として活躍した。「四季の歌」「文の手ほどき」「をごとのちり」「としのおだまき」その他多くの編著書を刊行し、門人、後進の養成につとめた。最晩年は筆草による独特な表現の秀作を遺している。

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